はじめに
この記事では,アルドさんの半生を紹介します。なお,ここに書かれていることはすべて実話です。
第1章『実家の記憶』
私は1980(昭和55)年2月生まれ,糸魚川市(旧・青海町)出身です。オトンは町内の大手化学会社本体の正社員で,オカンは糸魚川市内の食料品店に勤めていました。ちなみに実家は酒屋(小売店)をしていました。
子供の頃からお酒飲み放題だったのね。
お菓子食べ放題の間違いですね。
うらやましい。
ところが,オトンが消防団や地区の役員をがんばっていたため,会合が終わるとわが家に集まって宴会を行うことが多く,幼い私は恐怖を覚えたものです。
どういうこと?
酔っ払いが東司(トイレ)を汚すんですよ。まだ小さかった私は小便器に届かなかったので,小便器の前に踏み台を置いてもらったのですが……
そこに粗相されたのね。
ひどい話ですよね。私が6歳の時にオトンが実家を新築し,家族用の東司が別に作られるまで,私は衛生的に排泄することすらできなかったのですね。
昭和って怖い。
しかも新築初夜に泥酔したオトンが階段から転落するという失態をさらしました。途中に90度カーブがあることと,泥酔して変な抵抗をしなかったおかげで,命には関わらなかったのですが。そんなオトンを見て,私は「ああ,コイツは残念な奴なんだな」と思ったものです。
そこは悪口言っちゃだめよ。
ちなみに私の人生最初の記憶は,廊下に数十本並んだビール瓶です。古い家でも,新しい家でも,その光景は変わりませんでした。
すごい家だったのね。
ところが,そんな酔っ払いのオトンと真逆の記憶も,私の中にはあります。それが壁一面の本棚です。
週末になると,家族で糸魚川に買い物に行ったものですが,オトンはその度に本屋に寄っていました。毎週増殖する本を見て……残念なことに私も本好きになりました。
どこが残念なのですか?
酔っ払いのオトンと同じことは,何であれ嫌だと考えていたのです。
アルドさんも酒癖の悪い読書家であらせられます。
親が本好きだと子供も本好きになるって,本当なんだなあ。
第2章『水上文学との出会い』
アルドさんは糸魚川のことを文学のまちだと主張しているけど,家庭環境の影響があったのね。
家庭だけでなく,実際の文学者からも影響を受けています。親不知に文学碑がある水上勉(みずかみ・つとむ)先生ですね。
直木賞作家ね。
実は当時の町の広報誌で,私と水上先生が同じページに載っています。保育園児の絵を紹介するコーナーに私が掲載され,同じページに水上先生の講演会の案内が掲載されていました。
すごいなあ。
そして水上先生とも実際に対面しています。
これは小説『越後つついし親不知』の文学碑ね。
このエロ小説を読んだのは高校生になってからですが,私は幼少期から様々な本を読んだり,物語を空想するのが好きでした。
アルドさんの知性は幼い頃からの読書量に支えられているのね。
第3章『ビートルズとの出会い』
文学少年として成長した私ですが,中学校では吹奏楽部に入りました。
きっかけは?
学校の講堂前で待ち構えていた顧問の先公に,音楽室まで拉致られたのです。
言葉は選びましょう。
体が弱くスポーツが苦手だったため,運動部という選択肢はないと思っていました。とはいえ,文化・芸術的なものは文学しか興味がなく,たまたま拉……もとい,スカウトされた吹奏楽部に入りました。
何の楽器を担当していたのですか?
パーカッション……つまりは打楽器ですね。主に担当したのはバスドラム(大太鼓),ドラムセット,ティンパニです。
かっこよさそう。
と思うかもしれませんが,練習の大部分は基礎練習です。楽器ではなく練習用のパッドをひたすら叩いて,様々なリズムを練習していたものです。
コツコツと練習するのは大切よ。上達したら楽しいし,音楽は一生続けられる趣味よね。
ところが,1年生の時に先輩からかわいがられ,2年生の時にはコンクール本番で楽章終わりのシンバルを打つタイミングを間違えるなど,人間関係や技能に悩み,中学で音楽をやめる決意をしていました。
まさかの展開ね。
多くの部では夏の大会をもって3年生が引退しますが,吹奏楽部では3年生のコンクールが終わっても,秋の定期演奏会まで活動が続きます。
一応,最後まではがんばったのね。
その演奏会で,ビートルズの曲を演奏することになりました。
20世紀を代表するアーティストね。
よいメロディーだったので,今は亡き(廃業後,糸魚川大火にて全焼した)島道書店でCDを買って聞いてみました。
英語!
メロディーを頭の中で再現できるほど聞いたら,曲の流れが理解できたので,演奏の役に立ちました……ドラム担当ですが。
英語!
そして歌詞カードを見ながら真似て歌ってみました。すると,今まで平均的な成績だった英語が,どんどん分かるようになったのです。
これが語学との運命の出会いだったのですね。
一応はそうですね。しかし,実際には文学つながりで,すでに語学に興味を持っていました。登場人物に架空の言語を使わせたら面白そうだと,小説を書くのと並行してオリジナル言語を作っていました。
順番間違っています。
ちなみに,登場人物に架空の言語を使わせることは,20世紀を代表するファンタジー小説である『指輪物語』という先例があるのですが……意外にも当時は知りませんでした。
順番間違っています。
さて,吹奏楽と訣別した私は時間を持て余していました。英語の成績は急上昇中で,高校受験の心配もなくなり勉強時間は少なくても問題ない状況でした。
うらやましい。
もっと上を目指せばよかったのに。
学区2番手の高校(2022年ノーベル賞有力の方を輩出していますが)なら問題ないと,担任に言われた記憶がありますが……学区トップの高校でなかったことと,電車の乗り換えが懈いので糸魚川の高校を選びました。というわけで……受験勉強そっちのけで官能小説を書いていました。
論理間違っています。
男子中学生なんて,そんなもんです。
第4章『暴れる姫川』
さて,官能小説を書くほど時間を持て余していた受験生の私は,ある日の夜,何気なく見ていた教育テレビ(現・Eテレ)で外国語講座の番組と出会います。
今でも放送されています。旅行気分で面白いです。
当時は基礎編と応用編に分かれていて,本気で学べる講座でした。文化コーナーも充実しており,興味を持ちました。日本語や英語と違った各言語の美しさや難しさ,文化の多様性などに魅了され,各国語の番組を見るのが日課になりました。
受験勉強!
高校入試は数十人が落ちる激戦だったようですが,私は合格しました。そして高校入学後,本格的に韓国語とイタリア語の勉強を始めました。
どのように勉強していたのですか?
テレビの講座の他に,韓国のラジオ放送を録音して音楽番組をよく聞いていました。イタリア語でも偶然カンツォーネのCDが入手できたので,音楽を通して自然なリズムを身に着けたような気がします。
吹奏楽部で鍛えたリズム感が生かされたのね。本業のお勉強は大丈夫だったの?
英語の実力は学年3位でした。国語,特に古文・漢文も好きでしたが……他の科目は……お昼寝していたと思います。たしか生物の授業で唯一覚えているのが「スイカは野菜です」だったような……
だめだこりゃ。
進路についてはどう考えていたのですか?
大学進学希望者が多い高校だったため,私も何となく進学するものと思っていました。語学以外に何の取り柄もなく,社会では通用しないだろうと考えていたため,就職ではなく進学するほうがよいだろうと思っていました。
元々は外国語学部を目指していたのよね。
当時使っていたイタリア語の教材を監修された先生にあこがれて,大阪外国語大学(現・大阪大学)のイタリア語科を第1志望にしていました。
そこは先公じゃないのですね。
7・11水害か……
旧・青海町と糸魚川市の海側の境には姫川が流れています。私は毎日姫川を電車で渡り,高校に通っていました。
その姫川が水害に見舞われたのよね。
私が電車から見ていた姫川は,河口付近の緩やかな流の場所だけでした。しかし,上流域では濁流によって道路や線路が流されるなど,信じられないような被害が発生したのです。
糸魚川は世界ジオパークとして,自然が豊かな土地だけど,それはつまり自然災害も多いということなのよね。
そうですね。1年生の時はすごい被害だったなと思っただけですが,2年生の冬に発生した蒲原沢土石流災害で考えを改めました。
7・11水害の復旧工事に従事していた作業員が土石流に巻き込まれ,14人が亡くなったのね。
亡くなった作業員の中には,出稼ぎで姫川に来ていた方も多くいました。異郷の地で災害復旧工事に従事されていた方が災害で亡くなるのは,地元の人間として申し訳ない気持ちになります。こちらの写真は,後に出張帰りに立ち寄った慰霊碑です。
本当に残念で,忘れられない災害だったわね。
蒲原沢の災害がきっかけで,糸魚川のために生きようと思いました。その時点で,大阪外国語大学に興味を失ってしまったのです。
でも,大阪外国語大学に行ったとしても,外国に行ったり大都市で働いたりする義務はないわよ。
まあ,そうですね。実のところ,暗記が苦手で英単語を覚えるのが懈くなったので,何か別のことをしてみたくなったのです。いつでも進路変更できるよう,家から一番近い総合大学を目指すことにしました。
すごい進路選択方法だなあ。
他に興味がある分野もなかったので,どこの学部を受けるかは「あみだくじ」で決めました。この時点で「語学は大学でなくても学べる」と思っていたので,大学の専攻は何でもよかったのです。
あみだくじで人生を決めるなんて……南無阿弥陀佛……
私の実家は曹洞宗なので「南無阿弥陀佛」ではなく「南無釈迦牟尼仏」と唱えます。それはともかく,あみだくじの結果,現役時代は教育学部を,浪人時代は理学部を受験して,理学部に入学しました。
それで入学できたのもすごいわね。
第5章『数学と物理との出会い』
家から一番近い総合大学の理学部に入学した私は,実家を出て寮生活を始めました……もとい,始めさせられました。
どういうこと?
本来であれば実家から通うつもりでしたが,家を追い出されてしまいました。
今では糸魚川市が大学生向けの新幹線定期代を補助しています。
残念なことに家を追い出された私は,富山でやんちゃな生活をしていました。お酒が入った状態で自転車で暴走したり,女装して女子トイレに侵入したり……
それ以上言うと,パクられるわよ!
学業についてはどうでしたか?
授業をサボって図書館に入り浸っていましたね。
勉強熱心だけど,授業は手を抜くのね。
理学部に入って知ったのは,科学技術の世界において,数学や物理は言葉も同然だということでした。
自然現象は数式で表現されるのね。
外国語学部をあきらめた私にとって,新たな言語を学ぶのと同じような気持ちで,数学や物理を学ぶことができました。
それはよかったわね。
卒業までに時間はかかりましたが,お情けで卒業させてもらえることができました。しかし,何の取り柄もなかった私は,当然のように就活でも苦戦しました。しかも,在学中にオトンが酒の事故で亡くなるなど,二十代前半は人生のドン底だったと思います……あ,オトンが亡くなった時,私には完璧なアリバイがあります。
言葉を慎みましょう。でも,色々な企業に断られたそうね。
選考を受けたのは十数社だったと思います。もちろん,オトンが化学エンジニアとして働いていた大手化学会社は,最初から選択肢に含めていません。私は物理屋で,親と同じことをしたくありませんので。
他社さんは今頃,アルドさんを落としたことを後悔しているかもね。
言語能力以外は全てにおいてポンコツですから仕方ありません。奇跡的に拾っていただいた会社に入り,今も在籍しています。
最初の職場はエンジニアだったのね。
そうですね。理学部出身のため工学知識はほとんどありませんでした。しかし残念なことに,数学や物理は言葉同然と考えていた私には,工学知識を習得する基礎学力がありました。こうして,エンジニアという予想外のキャリアを歩むことになったのです。
人生,流されていたのね。
技術部員として,様々な現場への出張も経験しました。特に2011年の2月に茨城県の鹿島臨海工業地帯へ出張した時は,徹夜を度々経験するほどの過酷な作業でした。
あの震災の年……
第6章『大阪大学を目指して』
鹿島臨海工業地帯への出張は2月末で一旦終了したのですが,3月は糸魚川で残務処理に追われていました。そして2011年3月11日,金曜日の14時46分を迎えたのです。
東日本大震災ね。
私は糸魚川でデスクワーク中でしたが,地震後にネットの速報を見ると「震度7」とありました。
ひどい被害だったわよね。
鹿島臨海工業地帯のクライアントさんにも,建物等に被害が出ました。人的被害がなかったのは不幸中の幸いと思います。
その後に現場は訪れたの?
2011年の4月に鹿島臨海工業地帯に出張したのですが,近くの道路には津波で流された自動車が残ったままでした。
大変な被害だったのね。
震災を境に,私は死生観が変わりました。人生は一度しかないのです。一生を振り返ったときに,満足できる生き方をしなければならないと思いました。
それが「外国語の検定試験で最低でない級の全言語制覇」なのかしら?
その前にもう一段階ありました。高校時代の最初の目標だった大阪大学(元・大阪外国語大学)に入り直すことです。参考書を買いあさり,受験勉強をはじめました。おそらく,これが人生最大の挑戦です。
超難関ですよね?
そうでもありません。大阪大学は入学定員が国立大学で最も多いのです。だから,簡単そうに見えませんか?
そう考えれば,入学定員が国立大学で2番目の東京大学も簡単そうに見えるわ……そんなワケないか。
ちなみに,当時の大阪大学外国語学部イタリア語専攻前期日程の合格最低点は以下の通りです。満点はいずれも650点です。
2011年度 | 2010年度 | 2009年度 | 2008年度 |
---|---|---|---|
397.36点 | 442.55点 | 402.18点 | 408.74点 |
よって450点以上取れれば確実に合格できると考え,私の目標点数は以下の通り計画しました。
教科・科目 | 素点 | 圧縮後配点 | 目標得点 | 圧縮予想 |
---|---|---|---|---|
センター国語 | 200 | 25 | 145 | 18.125 |
センター数学IA | 100 | 12.5 | 90 | 11.25 |
センター数学IIB | 100 | 12.5 | 100 | 12.5 |
センター英語(筆記) | 200 | 18.75 | 160 | 15 |
センター英語(リスニング) | 50 | 6.25 | 40 | 5 |
センター世界史B | 100 | 25 | 70 | 17.5 |
センター地理B | 100 | 25 | 75 | 18.75 |
センター物理基礎 | 50 | 12.5 | 50 | 12.5 |
センター地学基礎 | 50 | 12.5 | 45 | 11.25 |
(センター試験小計) | 950 | 150 | 775 | 121.875 |
個別国語 | 100 | 100 | 60 | 60 |
個別数学 | 100 | 100 | 100 | 100 |
個別英語 | 300 | 300 | 170 | 170 |
(個別試験小計) | 500 | 500 | 330 | 330 |
合計 | 650 | 451.875 | ||
理学部出身なので理系科目で高得点を狙い,逆に文系科目は最低限を狙っているのね。アルドさんだからできる挑戦ね。
そうですね。しかし結局は高校時代と同じく,地元を離れることへの抵抗がどうしても払拭できませんでした。そして,受験勉強は3か月ほどで止めてしまいました。
ダメだこりゃ。
第7章『外国語検定との出会い』
大阪大学に入り直すという,人生最大の夢をあきらめたことで,しばらく情緒不安定な時期がありました。立ち直ったきっかけは「語学は大学でなくても学べる」という考えを思い出したことです。
理学部に入ったときに思ったことね。
大学でなくとも,語学をライフワークにしたい。そう考えた末に行き着いたのが「外国語の検定試験で最低でない級の全言語制覇」なのです。
そこから検定荒らしが始まったのね。
当時,私は英検2級を持っていました。次の準1級に挑戦するも,なかなか合格できませんでした。しかし「外国語の検定試験で最低でない級の全言語制覇」なら,一定の勉強量で複数の言語に合格できるだろうと思いました。
最初に合格したのはイタリア語検定4級ね。
こちらは3度目の挑戦で合格しました。特に2回目の挑戦では,あと1点で不合格になるという苦い経験もしました。受験料と金沢までの特急料金が水の泡と消えたのです。
当時は長野以東の北陸新幹線が未開業だったのですね。
しかも,地元糸魚川市のご当地検定である糸魚川ジオパーク検定で,最高位である達人級にも合格したのよね。
糸魚川ジオパーク検定の達人級が,人生の中で最も楽勝だった検定試験ですね。小論文があって一般的には難易度が高いとされますが,私は文章を書くのは得意なので。
市長に対する恨みが検定合格の原動力になったのよね。
市長も達人級に合格していただければ,何も言うことはありませんが……
その後,スペイン語検定5級にも運良く合格したのですね。
スペイン語検定は答案用紙がすべて回収され,結果通知も合否のみなので……なぜ合格できたのか謎です。
復習するには適さないわね。スペイン語検定に合格できたのは,イタリア語やフランス語の知識を活用できたからなのかもね。
そうですね
第8章『99%の才能と1%の努力』
検定試験荒らしを続けていた私が,30代最後に受けた試験はジャパンメンサの入会試験です。
メンサって,テレビのクイズ番組でよく聞きます。
IQが高い人の集団よね。
全人類の上位2%の知能を持つ人だけが入会できる団体です。病院で受けることができる指定の知能検査の結果で判定することもできますが,私は入会試験を受けました。
どんな問題が出るのですか?
詳細を漏らすと私の存在ごと消されるので控えますが,例えばメンサノルウェーでは参考になる問題を公表していますので,興味のある方は挑戦してみてください。
このような問題で高得点が取れれば,メンサに入れるかもしれないのですね。
ちなみに,アルドさんのIQはいくつだったの?
メンサの入会試験は合否通知しか来ませんので,当時は分かりませんでした。後に,とあるIQテストを受験したのですが,その結果は後でお話します。
もしかして,検定荒らしに成功したのは高いIQのおかげでしょうか?
そうかもしれません。才能ですね。ただ,私は言葉を使うこと以外すべてにおいてポンコツだと自覚しています。IQが高くても,何もかも幸せとは限りません。
それもそうね。それで,無事にメンサに入会したアルドさんは自信を持って次の検定試験に挑戦するのね。
ロシア語検定!
ロシア語検定は,それまで私が受けた語学の検定試験の中で,最難関と感じました。リスニング以外は書き問題であり,ロシア語の知識がないと1文字も書けないのですね。
マークシートなら,わからない問題が数問あっても,とりあえずマークしておけば運良く正解できるかもしれないわね。
ロシア語検定3級レベルでも,名詞が12通り,形容詞が24通り,動詞が12通りに変化します。これらを正確に覚え,用途に応じて使い分けなければなりません。
ロシア語そのものが難しいのですね。
さらに,検定試験は5分野に分かれており,それぞれの分野で6割以上取れないと総合点に関わらず不合格となります。
180点で合格することもあれば,279点で不合格になることもあるって,厳しいなあ。
まずは文法問題を繰り返し,受験回数を重ねながら他の分野も練習しました。
合格までに何回かかったのですか?
実際に受験したのは3回ですね。あとは台風の影響で受験できなかったのが1回。3回分の点数は以下の通りです。
挑戦回数 | 文法 | 露文和訳 | 和文露訳 | 聴取 | 朗読 |
---|---|---|---|---|---|
合格点/満点 | 60/100 | 30/50 | 30/50 | 30/50 | 30/50 |
1回目得点 | 61 | 20 | 5 | 20 | 28 |
2回目得点 | 83 | 19 | 22 | 45 | 28 |
3回目得点 | 91 | 30 | 31 | 35 | 30 |
文法で得点を稼いで,あとは足切りギリギリを狙ったの?
そうですね。朗読や翻訳は,一通り出来ていればお情けで30点ちょうどで合格にしてもらえるらしい……という体験談がネット上に転がっていますが,どうやら事実のようです。
手を抜いたのですね。
一応努力はしました。直前1週間は,朝5時半起床で聴取と文法の演習,昼休みも文法の演習,帰宅前に車の中で朗読の練習,入浴後に翻訳問題の過去問に出てくる単語をひたすら暗記,寝る前にロシア語の成人向け動画をまじめに鑑賞し……そして翌朝も5時半起床の繰り返しでした。
マネできないわね。しかもロシア語検定と同じ時期に,数学検定にも挑戦していたのよね。
国立大学理学部を卒業しているにも関わらず,数学検定準1級に3回連続で不合格になるという不名誉な経験です。途中に2級の一発合格をはさみ,準1級は4回目の挑戦で2次(記述)合格,5回目の挑戦で1次(計算)に合格と,数学検定準1級合格までに2年もかかりました。
そんなに難しいのですか?
出題傾向に恵まれなかった……ということにしておきましょう。というわけで,最後に私のIQについて話しましょう。私は2023年5月に,一般財団法人高IQ者認定支援機構が実施しているCAMSというIQテストを受けました。
出題方法が「図形の行列推理」で,測定対象は「時間的な圧力の少ない状況で、高い推論能力を発揮する力」とあるわね。
試験内容については公開できませんが,時間をかけて考えるのは楽しかったです。
結果は?
IQは143.8で,標準偏差は15でした。
標準偏差?
IQは平均を100として,上下に均等に分布しています。その散らばり具合を表すものが標準偏差です。例えば標準偏差が15であればIQ85から115の間に68.27%,70から130の間に95.45%,55から145の間に99.73%が含まれます。
アルドさんのIQ143.8は標準偏差3個分に迫る位置なのね。
そうですね。ちなみに全人類の上位0.175%に相当し,約571人に1人の出現率となります。
メンサの入会資格は上位2%だから,50人に1人の出現率です。圧倒的に上位ですね。
まあ,もっと高いIQの人だけが入れる団体もありますが,私には届きません。
それでも,アルドさんの言語能力や検定荒らしは,高いIQに支えられているのね。
そうですね。私は「99%の才能と1%の努力」だと思っています。しかし,勘違いしないでいただきたい。私は言葉を使うこと以外,すべてにおいてポンコツなのです。
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