はじめに

この記事では,アルドさんの半生を紹介します。なお,以下に書かれていることは2か所を除きすべて実話です。
第1章『文学のまち糸魚川と尊敬する2人』

私は1980(昭和55)年2月生まれ,糸魚川市(旧・青海町)親不知地区出身です。オトンは町内の上場化学会社本体の正社員で,オカンは糸魚川市内の食料品店に勤めていました。

ちなみに当時の実家は酒屋(小売店)をしており,家の前では三國連太郎の存命当時未公開だった映画『朽ちた手押し車』のロケが行われたこともあります。

戸の形が同じですね。

ところが,オトンが消防団や地区の役員をがんばっていたため,会合が終わるとわが家に集まって宴会を行うことが多く,幼い私は恐怖を覚えたものです。

どういうこと?

酔っ払いが東司(トイレ)を汚すんですよ。まだ小さかった私は小便器に届かなかったので,小便器の前に踏み台を置いてもらったのですが……

そこに粗相されたのね。

ひどい話ですよね。私が小学校1年生の時にオトンが実家を新築し,家族用の東司(トイレ)が別に作られるまで,私は衛生的に排泄することすらできなかったのですね。

昭和って怖い。

しかも新築初夜に泥酔したオトンが階段から転落するという失態をさらしました。途中に90度カーブがあることと,泥酔して変な抵抗をしなかったおかげで,命には関わらなかったのですが。そんなオトンを見て,私は「ああ,コイツは残念な奴なんだな」と思ったものです。

そこは悪口言っちゃだめよ。

ちなみに私の人生最初の記憶は,廊下に数十本並んだビール瓶です。古い家でも,新しい家でも,その光景は変わりませんでした。店に並んだビールよりも,廊下に並んだビールの記憶のほうが鮮明なのは不思議ですね。

すごい家だったのね。

ところが,そんな酔っ払いのオトンと真逆の記憶も,私の中にはあります。それが壁一面の本棚です。

週末になると,家族で糸魚川に買い物に行ったものですが,オトンはその度に本屋に寄っていました。毎週増殖する本を見て……残念なことに私も本好きになりました。

どこが残念なのですか?

酔っ払いのオトンと同じことは,何であれ嫌だと考えていたのです。

アルドさんも酒癖の悪い読書家であらせられます。

親が本好きだと子供も本好きになるって,本当なんだなあ。

アルドさんは糸魚川のことを文学のまちだと主張しているけど,家庭環境の影響があったのね。

家庭だけでなく,実際の文学者からも影響を受けています。親不知に文学碑がある水上勉(みずかみ・つとむ)先生ですね。

直木賞作家ね。

実は当時の町の広報誌で,私と水上先生が同じページに載っています。保育園児の絵を紹介するコーナーに私が掲載され,同じページに水上先生の講演会の案内が掲載されていました。

すごいなあ。

そして水上先生とも実際に対面しています。

これは小説『越後つついし親不知』の文学碑ね。

このエロ小説を読んだのは高校生になってからですが,私は幼少期から様々な本を読んだり,物語を空想するのが好きでした。

アルドさんの知性は幼い頃からの読書量に支えられているのね。
第2章『吹奏楽部とビートルズ』

文学少年として成長した私ですが,中学校では吹奏楽部に入りました。

きっかけは?

学校の講堂前で待ち構えていた顧問の先公に,音楽室まで拉致られたのです。

言葉は選びましょう。

体が弱くスポーツが苦手だったため,運動部という選択肢はないと思っていました。とはいえ,文化・芸術的なものは文学しか興味がなく,たまたま拉……もとい,スカウトされた吹奏楽部に入りました。

何の楽器を担当していたのですか?

パーカッション……つまりは打楽器ですね。主に担当したのはバスドラム(大太鼓),ドラムセット,ティンパニです。

かっこよさそう。

と思うかもしれませんが,練習の大部分は基礎練習です。楽器ではなく練習用のパッドをひたすら叩いて,様々なリズムを練習していたものです。

コツコツと練習するのは大切よ。上達したら楽しいし,音楽は一生続けられる趣味よね。

ところが,1年生の時に先輩にかわいがられ,2年生の時にはコンクール本番で楽章終わりのシンバルを打つタイミングを間違えるなど,人間関係や技能に悩み,吹奏楽は中学でやめる決意をしていました。ちなみに高校で芸術は選択科目ですが,音楽でも美術でもなく書道を選択しました。

もったいない。

とはいえ音楽そのものは好きであり,大学卒業後に地元の祭りで笛を担当して以来,ソロ演奏だけは趣味として現在も続けています。私の部屋にはフルート,ピッコロ,バイオリン,ビオラ,アルトリコーダー,ピアニカ,ファイフ,オカリナと,神社から借りパクの篠笛が転がっています。オカンにプレゼントしたはずの電子キーボードまで,なぜか私の部屋に転がっています。

他人とのセッションはしないのね。

話を中学に戻します。多くの部活動は夏の大会をもって3年生が引退しますが,吹奏楽部では3年生のコンクールが終わっても,秋の定期演奏会まで活動が続きます。

一応,最後まではがんばったのね。

その演奏会で,ビートルズの曲を演奏することになりました。

20世紀を代表するアーティストね。

よいメロディーだったので,今は亡き(廃業後,糸魚川大火にて全焼した)島道書店でCDを買って聞いてみました。

英語!

メロディーを頭の中で再現できるほど聞いたら,曲の流れが理解できたので,演奏の役に立ちました……ドラム担当ですが。

英語!

そして歌詞カードを見ながら真似て歌ってみました。すると,今まで平均的な成績だった英語が,どんどん分かるようになったのです。

これが語学との運命の出会いだったのですね。

一応はそうですね。しかし,実際には文学つながりで,すでに語学に興味を持っていました。登場人物に架空の言語を使わせたら面白そうだと,小説を書くのと並行してオリジナル言語を作っていました。

順番間違っています。

ちなみに,登場人物に架空の言語を使わせることは,20世紀を代表するファンタジー小説である『指輪物語』という先例があるのですが……意外にも当時は知りませんでした。

順番間違っています。

さて,吹奏楽と訣別した私は時間を持て余していました。英語の成績は急上昇中で,高校受験の心配もなくなり勉強時間は少なくても問題ない状況でした。

うらやましい。

もっと上を目指せばよかったのに。

学区2番手の高校(2022年ノーベル賞有力と注目された方を輩出していますが)なら問題ないと,担任に言われた記憶がありますが……学区トップの高校でなかったことと,電車の乗り換えが懈いので糸魚川の高校を選びました。というわけで……受験勉強そっちのけで官能小説を書いていました。

論理間違っています。

男子中学生なんて,そんなもんです。
第3章『1995年と語学』

さて,官能小説を書くほど時間を持て余していた受験生の私は,ある日の夜,何気なく見ていた教育テレビ(現・Eテレ)で外国語講座の番組と出会います。

今でも放送されています。旅行気分で面白いです。

当時は基礎編と応用編に分かれていて,本気で学べる講座でした。文化コーナーも充実しており,興味を持ちました。日本語や英語と違った各言語の美しさや難しさ,文化の多様性などに魅了され,各国語の番組を見るのが日課になりました。

受験勉強!

高校入試は数十人が落ちる激戦だったようですが,私は合格しました。そして高校入学後,本格的に韓国語とイタリア語の勉強を始めました。

どのように勉強していたのですか?

テレビの講座の他に,韓国のラジオ放送を録音して音楽番組をよく聞いていました。イタリア語でも偶然カンツォーネのCDが入手できたので,音楽を通して自然なリズムを身に着けたような気がします。

中学吹奏楽部で鍛えたリズム感が生かされたのね。本業のお勉強は大丈夫だったの?

英語の実力は学年3位でした。国語,特に古文・漢文も好きでしたが……他の科目は……お昼寝していたと思います。たしか生物の授業で唯一覚えているのが「スイカは野菜です」だったような……ところでランゲルハンス島って,どこの国の領土でしたっけ?

だめだこりゃ……ちなみにランゲルハンス島は膵臓にあります。

進路についてはどう考えていたのですか?

大学進学希望者が多い高校だったため,私も何となく進学するものと思っていました。語学以外に何の取り柄もなく,社会では通用しないだろうと考えていたため,就職ではなく進学するほうがよいだろうと思っていました。

元々は外国語学部を目指していたのよね。

当時使っていたイタリア語の教材を監修された先生にあこがれて,大阪外国語大学(現・大阪大学)のイタリア語科を第1志望にしていました。

そこは先公じゃないのですね。

7.11水害か……同じ1995年には阪神淡路大震災やオウム事件もあって,印象的な年だったわね。

旧・青海町と糸魚川市の海側の境には姫川が流れています。私は毎日姫川を電車で渡り,高校に通っていました。

その姫川が水害に見舞われたのよね。

私が電車から見ていた姫川は,河口付近の緩やかな流の場所だけでした。しかし,上流域では濁流によって道路や線路が流されるなど,信じられないような被害が発生したのです。

糸魚川は世界ジオパークとして,自然が豊かな土地だけど,それはつまり自然災害も多いということなのよね。

そうですね。1年生の時はすごい被害だったなと思っただけですが,2年生の冬に発生した蒲原沢土石流災害で考えを改めました。

7.11水害の復旧工事に従事していた作業員が土石流に巻き込まれ,14人が亡くなったのね。

亡くなった作業員の中には,出稼ぎで姫川に来ていた方も多くいました。異郷の地で災害復旧工事に従事されていた方が災害で亡くなるのは,地元の人間として申し訳ない気持ちになります。こちらの写真は2017年12月,出張帰りに立ち寄った慰霊碑です。

本当に残念で,忘れられない災害だったわね。

蒲原沢の災害がきっかけで,糸魚川のために生きようと思いました。その時点で,大阪外国語大学に興味を失ってしまったのです。

でも,大阪外国語大学に行ったとしても,外国に行ったり大都市で働いたりする義務はないわよ。

まあ,そうですね。実のところ,暗記が苦手で英単語を覚えるのが懈くなったので,何か別のことをしてみたくなったのです。いつでも進路変更できるよう,家から一番近い総合大学を目指すことにしました。この時点で「語学は大学でなくても学べる」という考えに到達していました。

すごい進路選択方法だなあ。
第4章『あみだくじと理学部』

大阪外国語大学から近場の総合大学に進路変更しましたが,人文学部に語学系の学科はあってもイタリア語専攻はなく,他に興味がある分野もありませんでした。とりあえず幅広く学べそうな教育学部を受験しましたが,長野オリンピックに熱中して勉強するのを忘れていたので不合格でした。

アルドさんって,夏休みの宿題とかギリギリまで着手しないタイプなのよね。

浪人することになりましたが,それでも興味を持てそうな分野を決められず,開き直って「あみだくじ」でどこの学部を受けるかを決めました。

あみだくじで人生を決めるなんて……南無阿弥陀仏……

私の実家は曹洞宗なので「南無阿弥陀仏」ではなく「南無釈迦牟尼仏」と唱えます。それはともかく,あみだくじの結果は理学部だったので,理転して理学部を目指すことにしました。

理転……できるものなのね。学科もあみだくじなの?

高校で物理を勉強していないので,理学部だとすれば化学か生物で受験可能な学科(化学系,地球物理系,生物系)に限られるので,あみだくじという訳にはいきませんでした。

あみだくじで工学部を引かなくてよかったわね。

化学系学科はオトンの専門なので避けると,地球物理系学科と生物系学科に限られます。二次試験の受験科目はどちらにも対応可能な化学にしましたが,最後の最後まで悩みに悩んだ結果,入学後の転学科の可能性を残して,地球物理系を受験して合格しました。結局,生物系(2022年ノーベル賞有力と注目された方を輩出していますが)に転じることなく,そのまま物理屋になりました……実際には浪人時代に物理と地学も勉強して,センター試験は地学で9割取りましたが。

できるものなのね。

さて,家から一番近い総合大学の理学部に入学した私は,実家を出て寮生活を始めました……もとい,始めさせられました。

どういうこと?

本来であれば実家から通うつもりでしたが,家を追い出されてしまいました。ちなみに私のオトンは昭和の東京オリンピック前に,蒸気機関車でこの大学の斜向かいにある工業高校に通っていたので,まさか自分が富山市に引っ越すことになるとは想像していませんでした。家を追い出されることが分かっていれば,最初から大阪外国語大学に進学したはずで,本気で後悔しました。

今では糸魚川市が大学生向けの新幹線定期代を補助しています。

残念なことに家を追い出された私は,富山でやんちゃな生活をしていました。お酒が入った状態で自転車で暴走したり,女装して女子トイレに侵入したり……

それ以上言うと,パクられるわよ!

学業についてはどうでしたか?

授業をサボって大学の図書館や富山県立図書館に入り浸っていましたね。

勉強熱心だけど,授業は手を抜くのね。

理学部に入って知ったのは,科学技術の世界において,数学や物理は言葉も同然だということでした。

自然現象は数式で表現されるのね。


それは惜しいわね。でも,文学青年は継続していたのよね。

1998(平成10)年の歌会始がきっかけで短歌にも興味を持ちました。学生時代に1〜2回応募したようですが,残念ながら記憶も記録も残っていません。官能小説は中学で卒業しましたが,小説を書きたいという気持ちは持ち続けていました。しかし,後に第153回芥川賞を取ることになる羽田圭介さんが第40回文藝賞で鮮烈なデビューを果たしたことで,私には才能がないと思い,文学で生きることはあきらめました。

色々なことをあきらめているのですね。

あきらめなかったのは勉強だけでしょうか。卒業までに時間はかかりましたが,お情けで卒業させてもらえることができました。しかし,何の取り柄もなかった私は,当然のように就活でも苦戦しました。しかも,在学中にオトンが酒の事故で亡くなるなど,二十代前半は人生のドン底だったと思います……あ,オトンが亡くなった時,私には完璧なアリバイがあります。

言葉を慎みましょう。でも,就活では色々な企業に断られたそうね。

選考を受けたのは十数社だったと思います。もちろん,オトンが化学エンジニアとして働いていた上場化学会社は,最初から選択肢に含めていません。私は物理屋で,親と同じことをしたくありませんので。

他社さんは今頃,アルドさんを落としたことを後悔しているかもね。

言語能力以外は全てにおいてポンコツですから仕方ありません。今でも恨みを持っているのは糸魚川市役所の採用試験を落とされたことだけですね。

アルドさんは地球物理系出身にも関わらず,市役所の採用試験は一般行政上級職で1次合格しているのよね。当時の一般人は,アルドさんも含め,誰もジオパークという言葉を知らなかったけど,糸魚川市は貴重なジオパーク人材を民間に取られた上に,市長がアルドさんから恨まれることになるとは……まあ,アルドさんには絶対に公僕は向いていないと思うけど。

奇跡的に拾っていただいた会社に入り,今も在籍しています。

最初の職場はエンジニアだったのね。

そうですね。理学部出身のため工学知識はほとんどありませんでした。しかし残念なことに,数学や物理は言葉同然と考えていた私には,工学知識を習得する基礎学力がありました。こうして,エンジニアという予想外のキャリアを歩むことになったのです。

人生,流されていたのね。
第5章『東日本大震災と大阪大学』

エンジニアとして就職後,技術部員として様々な現場への出張も経験しました。特に2011年の2月に茨城県の鹿島臨海工業地帯へ出張した時は,徹夜を度々経験するほどの過酷な作業でした。

あの震災の年……

鹿島臨海工業地帯への出張は2月末で一旦終了したのですが,3月は糸魚川で残務処理に追われていました。そして2011年3月11日,金曜日の14時46分を迎えたのです。

東日本大震災ね。

私は糸魚川でデスクワーク中でしたが,地震後にネットの速報を見ると「震度7」とありました。

ひどい被害だったわよね。

鹿島臨海工業地帯のクライアントさんにも,建物等に被害が出ました。人的被害がなかったのは不幸中の幸いと思います。

その後に現場は訪れたの?

2011年の4月に鹿島臨海工業地帯に出張したのですが,近くの道路には津波で流された自動車が残ったままでした。

大変な被害だったのね。

震災を境に,私は死生観が変わりました。人生は一度しかないのです。一生を振り返ったときに,満足できる生き方をしなければならないと思いました。

それが「外国語の検定試験で最低でない級の全言語制覇」なのかしら?

その前にもう一段階ありました。高校時代の最初の目標だった大阪外国語大学に入り直すことです。私の出身校もそうですが,国立大学の再編統合により大阪外国語大学は大阪大学と合併していました。大阪大学というブランドを得た外国語学部に魅力を感じたのは事実ですが,そんな不純な動機ではなく,かつて目指していたからこそ純粋に挑戦したいと思ったのです。気付けば参考書を買いあさり,受験勉強を始めていました。

超難関ですよね?

そうでもありません。大阪大学は入学定員が国立大学で最も多いのです。だから,簡単そうに見えませんか?

そう考えれば,入学定員が国立大学で2番目の東京大学も簡単そうに見えるわ……そんなワケないか。

ちなみに,当時の大阪大学外国語学部イタリア語専攻前期日程の合格最低点は以下の通りです。満点はいずれも650点です。
2011年度 | 2010年度 | 2009年度 | 2008年度 |
---|---|---|---|
397.36点 | 442.55点 | 402.18点 | 408.74点 |

よって450点以上取れれば確実に合格できると考え,私の目標点数は以下の通り計画しました。ちなみに二次試験は日本史,世界史,地理,数学から1科目選択となります。
教科・科目 | 素点 | 圧縮後配点 | 目標得点 | 圧縮予想 |
---|---|---|---|---|
センター国語 | 200 | 25 | 145 | 18.125 |
センター数学IA | 100 | 12.5 | 90 | 11.25 |
センター数学IIB | 100 | 12.5 | 100 | 12.5 |
センター英語(筆記) | 200 | 18.75 | 160 | 15 |
センター英語(リスニング) | 50 | 6.25 | 40 | 5 |
センター世界史B | 100 | 25 | 70 | 17.5 |
センター地理B | 100 | 25 | 75 | 18.75 |
センター物理基礎 | 50 | 12.5 | 50 | 12.5 |
センター地学基礎 | 50 | 12.5 | 45 | 11.25 |
(センター試験小計) | 950 | 150 | 775 | 121.875 |
二次国語 | 100 | 100 | 60 | 60 |
二次数学 | 100 | 100 | 100 | 100 |
二次英語 | 300 | 300 | 170 | 170 |
(二次試験小計) | 500 | 500 | 330 | 330 |
合計 | 650 | 451.875 |

理学部出身なので理系科目で高得点を狙い,逆に文系科目は最低限を狙っているのね。アルドさんだからできる挑戦ね。

そうですね。しかし結局は高校時代と同じく,地元を離れることへの抵抗がどうしても払拭できませんでした。そして,受験勉強は3か月ほどで止めてしまいました。

ダメだこりゃ。
第6章『ライフワークと糸魚川大火』

大阪大学に入り直すという,人生最大の夢をあきらめたことで,しばらく情緒不安定な時期がありました。立ち直ったきっかけは「語学は大学でなくても学べる」という考えを思い出したことです。

理学部に入ったときに思ったことね。

大学でなくとも,語学をライフワークにしたい。そう考えた末に行き着いたのが「外国語の検定試験で最低でない級の全言語制覇」なのです。

そこから検定荒らしが始まったのね。

当時,私は英検2級を持っていました。次の準1級に挑戦するも,なかなか合格できませんでした。しかし「外国語の検定試験で最低でない級の全言語制覇」なら,一定の勉強量で複数の言語に合格できるだろうと思いました。また,歌会始の応募を再開するなど,文学活動も再開しました。

外国語の検定試験で,最初に合格したのはイタリア語検定4級ね。

こちらは3度目の挑戦で合格しました。特に2回目の挑戦では,あと1点で不合格になるという苦い経験もしました。受験料と金沢までの特急料金が水の泡と消えたのです。

当時は長野以東の北陸新幹線が未開業だったのですね。


しかも,地元糸魚川市のご当地検定である糸魚川ジオパーク検定で,最高位である達人級にも合格したのよね。

当時の達人級は何度も挑戦してようやく合格できるような難関とされていました。そもそも上級不合格経験がある私は一発合格をあきらめて,達人級初挑戦時は出題傾向を知るためだけに,勉強時間ゼロで会場に向かいました。

合格のためなら手段を選ばないのね。

初めて達人級の問題を解いた感想は……勉強していれば合格できるほど簡単……でした。文章を書くのが得意なため小論文で点数を稼げたので,あと10点分だけの知識があれば一発合格できていました。

あと10点でもそれなりの難易度よ。でも,2回目の挑戦時はしっかり勉強したのよね。

自分なら合格できるという確証がありましたが,本気にさせたのは2016(平成28)年12月22日,木曜日に発生した糸魚川大火です。

アルドさんも消防団員として出動したのよね。

私の所属する部は,まさに最前線である本町十字路で放水の任に当たりました。私自身は後方でポンプを守っていたため安全な場所にいましたが,なじみの街並みが次々と炎に包まれていくのが見え,本当に辛かったです。

そんな光景を見てしまったら,もう達人級合格に向けてガチで勉強するしかないわね。

ジオパークは豊かな自然の象徴ですが,糸魚川大火や7.11水害など災害の元凶でもあります。災害で傷ついた糸魚川市を,人生の中で何度も見てきたことから,ジオパークの達人となって地元に恩返ししたいと,まさに糸魚川大火の現場で思い,翌年実現させました。
第7章『99%の才能と1%の努力』

その後,スペイン語検定5級にも運良く合格したのですね。

スペイン語検定は答案用紙がすべて回収され,結果通知も合否のみなので……なぜ合格できたのか謎です。

復習するには適さないわね。スペイン語検定に合格できたのは,イタリア語やフランス語の知識を活用できたからなのかもね。

そうですね

さて,検定試験荒らしを続けていた私が,30代最後に受けた試験はジャパンメンサの入会試験です。

メンサって,テレビのクイズ番組でよく聞きます。

IQが高い人の集団よね。

全人類の上位2%の知能を持つ人だけが入会できる団体です。病院で受けることができる指定の知能検査の結果で判定することもできますが,私は入会試験を受けました。

どんな問題が出るのですか?

詳細を漏らすと私の存在ごと消されるので控えますが,例えばメンサノルウェーでは参考になる問題を公表していますので,興味のある方は挑戦してみてください。

このような問題で高得点が取れれば,メンサに入れるかもしれないのですね。

ちなみに,アルドさんのIQはいくつだったの?

メンサの入会試験は合否通知しか来ませんので,具体的な値について当時は分かりませんでした。メンサ入会後,メンサつながりで2023年5月に,一般財団法人高IQ者認定支援機構が実施しているCAMSというIQテストを受けました。

出題方法が「図形の行列推理」で,測定対象は「時間的な圧力の少ない状況で、高い推論能力を発揮する力」とあるわね。

試験内容については公開できませんが,時間をかけて考えるのは楽しかったです。

結果は?

IQは143.8で,標準偏差は15でした。

標準偏差?

IQは平均を100として,上下に均等に分布しています。その散らばり具合を表すものが標準偏差です。例えば標準偏差が15であればIQ85から115の間に68.27%,70から130の間に95.45%,55から145の間に99.73%が含まれます。

アルドさんのIQ143.8は標準偏差3個分に迫る位置なのね。

そうですね。ちなみに全人類の上位0.175%に相当し,約571人に1人の出現率となります。

メンサの入会資格は上位2%だから,50人に1人の出現率です。圧倒的に上位ですね。

まあ,もっと高いIQの人だけが入れる団体もありますが,私には届きません。

それでも,アルドさんの言語能力や検定荒らしは,高いIQに支えられているのね。

そうですね。私は「99%の才能と1%の努力」だと思っています。しかし,勘違いしないでいただきたい。私は言葉を使うこと以外,すべてにおいてポンコツなのです。

ロシア語検定に合格したのも,この頃ですよね。

ロシア語検定は,それまで私が受けた語学の検定試験の中で,最難関と感じました。リスニング以外は書き問題であり,ロシア語の知識がないと1文字も書けない……つまりは1点も取れないのですね。

マークシートなら,わからない問題が数問あっても,とりあえずマークしておけば運良く正解できるかもしれないわね。

ロシア語検定3級レベルでも,名詞が12通り,形容詞が24通り,動詞が12通りに変化します。これらを正確に覚え,用途に応じて使い分けなければなりません。

ロシア語そのものが難しいのですね。

さらに,検定試験は5分野に分かれており,それぞれの分野で6割以上取れないと総合点に関わらず不合格となります。

180点で合格することもあれば,279点で不合格になることもあるって,厳しいなあ。

まずは文法問題を繰り返し,受験回数を重ねながら他の分野も練習しました。

合格までに何回かかったのですか?

実際に受験したのは3回ですね。あとは台風の影響で受験できなかったのが1回。3回分の点数は以下の通りです。
挑戦回数 | 文法 | 露文和訳 | 和文露訳 | 聴取 | 朗読 |
---|---|---|---|---|---|
合格点/満点 | 60/100 | 30/50 | 30/50 | 30/50 | 30/50 |
1回目得点 | 61 | 20 | 5 | 20 | 28 |
2回目得点 | 83 | 19 | 22 | 45 | 28 |
3回目得点 | 91 | 30 | 31 | 35 | 30 |

文法で得点を稼いで,あとは足切りギリギリを狙ったの?

そうですね。朗読や翻訳は,一通り出来ていればお情けで30点ちょうどで合格にしてもらえるらしい……という体験談がネット上に転がっていますが,どうやら事実のようです。

手を抜いたのですね。

一応努力はしました。直前1週間は,朝5時半起床で聴取と文法の演習,昼休みも文法の演習,帰宅前に車の中で朗読の練習,入浴後に翻訳問題の過去問に出てくる単語をひたすら暗記,寝る前にロシア語の成人向け動画をまじめに鑑賞し……そして翌朝も5時半起床の繰り返しでした。

これを「99%の才能と1%の努力」と言うアルドさんは化け物かしら。しかもロシア語検定と同じ時期に,数学検定にも挑戦していたのよね。

国立大学理学部を卒業しているにも関わらず,数学検定準1級に3回連続で不合格になるという不名誉な経験です。途中に2級の一発合格をはさみ,準1級は4回目の挑戦で2次(記述)合格,5回目の挑戦(しかも公開会場の試験日時がロシア語検定と重なり,1週間後の提携会場)で1次(計算)に合格と,数学検定準1級合格までに2年もかかりました。

そんなに難しいのですか?

出題傾向に恵まれなかった……ということにしておきましょう。
第8章『能登半島地震と図南之翼』

語学も数学もできるのはすごいです。

数学や物理は言葉と同等だと,理学部で学んだことが大きいですね。そもそも外国語学部を目指していたのも,国際交流に興味があるのではなく,言語そのものに興味を持っていたからです。

理転して数学を学んだことで,言語能力にも影響したのね。

数学力も語学力も活かせるコンテストがあるのですがご存知ですか?

オリンピックみたいに超人が出場するのですか?

言語学オリンピックというコンテストがあります。

そういえば数学などでもオリンピックの名を冠したコンテストがあるわね。

数学や物理学など様々な分野のオリンピックがあり,国内予選から国際大会まで様々なステージがあります。基本的には高校生向けのコンテストですが,言語学オリンピックの国内予選にはオープン枠があり,私のようなセミプロでも競技に参加できます。

アルドさんが参加したら,簡単に問題が解けるんじゃないの?

そうでもありません。私は国内予選である日本言語学オリンピックにこれまで4回参加しましたが,銅賞2回,努力賞1回,銀賞1回です。ちなみに,金賞は上位18分の1,銀賞が上位6分の1,銅賞が上位3分の1,努力賞は平均点以上が基準です。

全人類の上位571分の1に相当するIQ143.8のアルドさんでも,日本言語学オリンピックでは最高で銀賞なのね。

どんな問題が出るのですか?

まず,未知の言語の単語や文とそれらの日本語訳が与えられ,それを手がかりに別の単語や文について推理する問題が基本です。

数学ができて,外国語8つを一定レベルで理解できて,IQ143.8のアルドさんでも,最高で銀賞なのね。

くどいですよ。

でも,アルドさんはなぜ勉強を続けているの?

人生の中で,地元,国内,国外問わず様々な災害を体験,伝聞する中で,人生観が変な方向に形成されたのでしょう。

最近では能登半島地震よね。アルドさんも避難所の設営側を経験したのよね。

さすがに元日の震度7は神様を恨みたくなりますが……日本の国是は「天を恨まず」だと思っているので,天に委ねるしかありません。帰省客や観光列車の乗員乗客の避難も受け入れたのは,貴重な経験と受け止めています(次がないことを願いますが)

しかもアルドさんは地震の2週間後に,凍った道で転倒して宙を舞い,左腕と背骨を骨折して入院したのよね。

しばらく寝たきりで,スマホ以外に娯楽がない世界にいました。

今ではそれが標準じゃないんですか?

偶然にも隣のベットが知り合いでしたが,さすがに大部屋でいかがわしい動画を楽しむわけにはいかず,この時間を利用してタイ文字のメカニズムを研究していました。

結局は語学なのですね。

その勢いでタイ語検定にも2回挑戦して……2回不合格ね。にも関わらずタイ文字についてブログで1か月も解説するとは……

化け物……

単なるポンコツですよ。それでも糸魚川に,北陸に,日本に,郷土や学問のために熱くなる奴がいることで,結果として誰かの人生のお役に立てれば,それが自分の生きた証だと思います。

この寺子屋の名前は「図南之翼」……つまり,どこかで何か大きなことを成そうとすること。それはアルドさんの生き様そのものなのね。
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